とくしまヒストリー

「伊賀町」 ―城下町徳島の地名7― 〜第19回〜

 徳島市伊賀町は、眉山麓に位置する静かな佇(たたず)まいの住宅地だ。「伊賀」とは三重県の一部を指す旧国名だが、甲賀と並ぶ忍者の里として有名だ。その伊賀の地名が、なぜ徳島にあるのだろうか。
 こんな話が、大正時代の初めに刊行された『御大典記念阿波藩民政資料』上巻に収められている。
江戸時代の初め、忍びの達人である伊賀者が蜂須賀家を頼って阿波国にやって来た。彼らは伊賀を出た後、出雲国(島根県)の大名堀尾山城守に仕えたが、同家が断絶したので讃岐国(香川県)の生駒讃岐守に仕えた。ところが同家も改易となったので、徳島藩2代藩主蜂須賀忠英の時代に徳島を訪ね、なんとか自分たちを召し抱えて欲しいと懇願したのである。徳島藩では、彼らをどれほど手柄があっても昇進させることはないという条件のもとで、徒士(かち)(歩行(かち))に採用した。徒士とは徒歩で行列の先導等を務めた侍だ(『広辞苑』)。そんな条件を設けたのは、伊賀者は忍びの達人なので戦場での手柄は計り知れないからだという(「将卒役令」)。
 伊賀者の実力は高く評価されていたのだ。いや恐れられていたのかもしれない。
 徳島藩では、伊賀者を士分に取り立てて、「伊賀士」と呼んだ。彼らの屋敷が置かれたのが、江戸時代には伊賀士丁であり、昭和15年(1940)に現在の伊賀町となった(『徳島市史別巻 地図絵図集』。
 伊賀士の仕事は、徒士が務めた行列の先導等が主だったが、元文3年(1738)からは特命を受け、8人を4番編成として、毎日2人ずつ出勤させた。1人は徳島城御殿にいてにらみをきかせた。もう1人は月番の仕置家老宅で同じく警護役を務めた(『藩法集3徳島藩』№1296)。
 史料をみていると「伊賀役」という仕事がある。これは、藩主の参勤交代に随行し警護にあたった、現代で言えば、エス・ピー(要人の身辺警護を行う私服警察官)のような仕事ではないかと思われる(『藩法集3徳島藩』№1308)。徳島藩では、要職や藩主近くに勤仕する者は、「御用誓紙」という忠誠を誓う血判状を提出したが、伊賀士は代々、「伊賀役」を務めてきたので提出を免除された。伊賀士は特別に信頼されていたのだ。
 こんな仕事をしていたので武術には優れていた。なかでも、小澤家は代々、貫(かん)心流(しんりゅう)剣術師範を務めていたから達人クラスだっただろう(「諸士武芸指南仕面々并芸方名目伝来書」)。
 ところで、伊賀士の先祖が本当に伊賀出身で忍者なのか、先に掲げた伝承が真実なのか、彼らの系譜・系図資料である成立書(徳島大学附属図書館蔵)をもとに調査を行った。
その結果、確かに伊賀出身であることが裏付けられた。
ただし、忍者ではなく国人領主のような存在であった。彼らは、織田信長に攻められて伊賀から逃亡し、出雲の堀尾家、そして讃岐の生駒家に仕官し、多くは寛永17年(1640)に徳島藩主蜂須賀家に召し抱えられている。「将卒役令」の記述はおおむね裏付けられたのだが、忍者ではなかった。伊賀から出雲、讃岐、そして阿波という伊賀士先祖の軌跡は、「将卒役令」と「成立書」とで類似している。
注目点は伊賀出身ということだ。小澤家は、豊後(大分県)の大友宗麟(そうりん)の末裔であるのに伊賀に住み着き、同様の経路で蜂須賀家に仕えている(「成立書并系図共 小澤金助」)。
恐らく、伊賀士なので伊賀出身であることを誇りにしていたのだろう。
 伊賀士たちの誇りが地名として残っているのが、徳島市伊賀町なのだ。

参考文献:
「将卒役令」(『御大典記念阿波藩民政資料』上巻、徳島縣発行、1916年)
『藩法集3徳島藩』、藩法研究会編、1962年
『徳島市史別巻 地図絵図集』、徳島市史編さん委員会編、1978年
『日本歴史地名大系37 徳島県の地名』、平凡社、2000年
高田豊輝著・発行『阿波近世用語辞典』、2001年
「諸士武芸指南仕面々并芸方名目伝来書」、蜂須賀家文書№784-1、国文学研究資料館蔵
「成立書并系図共 小澤金助」、徳島大学附属図書館蔵
「成立書并系図共 平井宅蔵」、徳島大学附属図書館蔵
「成立書并系図共 箕浦辰吉」、徳島大学附属図書館蔵
「成立書并系図共 坂田曽兵衛」、徳島大学附属図書館蔵
「成立書并系図共 大嶋三太兵衛」、徳島大学附属図書館蔵

[ 写真 ]
「阿州分限帳」、徳島城博物館蔵、万延元年(1860)。
伊賀士は、名前の上に朱筆で「伊賀」と記されている。
[ 写真 ]
「阿波国渭津城下之絵図」徳島城博物館蔵、天和3年(1683)。
眉山麓の「歩行者(徒士)」が伊賀士丁にあたる。

 

「安宅(あたけ)」 ―城下町徳島の地名6― 〜第18回〜

 徳島市内には安宅という町があるが、安宅の意味を御存じだろうか。
安宅とは水軍のことを指し、水軍の基地のことも呼んだ。地名の由来は、紀伊国牟婁(むろ)郡安宅(あたぎ)(和歌山県日置川町)に出自を持つという水軍の安宅(あたぎ)氏一族が戦国時代に三好氏に仕え、大型軍船を駆使して活躍した。その大型軍船の通称である「安宅」をとって、水軍やその基地を呼んだとされる(『徳島県の地名 日本歴史地名大系37』)。
「安宅」の地名は古く、寛永3年(1626)に出された「安宅島万壁書」という徳島藩の法令のなかに見える。「安宅島万壁書」は藩主が水軍のことを定めた最古の法令だ。ただし、この史料が示す「安宅島」は福島の東部ではなく、助任川と大岡川の合流する常三島の南東端(現在の徳島大学工学部付近)にあった。
水軍の基地は初めは常三島にあったが、城下町の開発が進み武家屋敷用地が必要となり、また助任川の堆積が進み大型船の出入りが困難になったため、寛永17年(1640)に福島の東側に移転したのだった。そのため、福島東部から沖洲までのエリアを「安宅」と呼ぶようになった。常三島の方は「古安宅」と称された。
水軍の基地の移転とともに、船頭の屋敷は常三島から安宅へ、藩船の漕ぎ手である水(か)主(こ)の屋敷は住吉島から沖洲に移されている。水軍の基地である「安宅」の移転は、徳島の都市政策における一大プロジェクトであり、そして大きな転機になった。
それは、藩主の参勤交代は、徳島城を出て助任本町・大岡を抜け別宮で乗船するルートから、福島・安宅・沖洲のルートに変わったからだ。つまり、徳島城を出て北進するコースから東進するコースに移行したのだった。このように、水軍の基地の移転は、江戸前期に進められた城下町の再編を象徴する出来事でもあったのだ。
ちなみに、基地が移転した福島東部の地域は、それまでは「地きれ」(慶長10年(1605)頃、「阿波国大絵図」、徳島大学附属図書館蔵)と呼ばれ、当時は開発の余地を残していた場所だった。
安宅は、福島の四所神社より東で沖洲に至る地域だ。安宅の東端には地名の由来となった徳島藩水軍の根拠地があり、西側は船頭・水主の屋敷地、その南側には船大工の屋敷55軒が集まった「大工島」から構成されていた。
水軍の基地は、東西230間(約460m、1間は6尺5寸)、南北が150間(約300m)で、現在の城東中学校がその中に収まってしまうほどの広さだ。周囲には土手が設けられ、土手上には松が植えられ、外部から隔絶された空間だった。この基地には、藩船を収めておく船倉と、藩船の建造・修理を行うドック、そして役所からなっていた。
船倉は、「安宅御船蔵絵図」(笹尾秀登氏蔵)によれば76軒を数え、水軍の巨大施設だったことが分かる。
安宅は、水軍の基地や船頭・水主・船大工の屋敷が集まった水軍一色の町だった。これは大きな特徴だ。しかも、この町を管理したのは安宅目付であって、町奉行の警察権の及ばない場所だったというから興味深い。
水軍の基地と船頭・水主の屋敷地の間とは随分と離れている。その空閑地を「百間地」という。江戸前期に武家屋敷の飛火が原因で藩船が焼失したため、類焼を防ぐ目的で人家を基地から百間(約200m)ほど離して建てたという。それぐらい、藩船を大切にしていたのだ。
海に面した領国をもった徳島藩主蜂須賀家にとって、水軍は必要不可欠な存在であった。福島以東に水軍を集約したのは蜂須賀家の都市計画の特徴だが、そのねらいは水軍組織と船舶などの一元管理と保護にあったと考えられる。
現在では、船大工の伝統を残した「渭東の木工業」だけが往時を偲ばせているが、安宅は深い歴史を持つ特色のある場所だ。

参考文献:
団 武雄氏『阿波蜂須賀藩之水軍』、徳島市立図書館発行、1958年
『日本歴史地名大系37 徳島県の地名』、平凡社、2000年
絵図図録第2集「徳島城下とその周辺」、徳島城博物館発行、2001年
根津寿夫「徳島藩水軍の再編 ー武家集団における秩序の形成ー」(高橋啓先生退官記念論集『地域社会史への試み』所収、2004年)
[ 写真 ]
「安宅御船蔵御絵図」、江戸時代後期、笹尾秀登氏蔵(徳島城博物館寄託)

 

「瓢箪(ひょうたん)島(じま)」 ―城下町徳島の地名5― 〜第17回〜

 ひょうたん島といえば、「新町川を愛する会」が運航されている「ひょうたん島クルーズ」を連想する。両国橋からスタートする、この6キロほどのクルーズは、見どころが豊富で時の経つのを忘れてしまう。
まず、助任川から見た徳島城北側の風景はどこか寂しげで古城の雰囲気を漂わせているし、人柱伝説を持つ福島橋を通る時には何かヒヤリとするのは私だけであろうか。そして、新南福島で右に曲がると、眉山をバックにした雄大な新町川の流れが目の前に現れ、徳島の自然の恵みを感じさせる。江戸時代も津田口から入って来た船舶は、この風景を見ていたのだろう。そう思うと実に感慨深い。たった30分ほどのクルーズだが、徳島の自然と文化が楽しむことができて感動的だ。ひょうたん島の代表的イメージは、このクルーズだろう。
 現代親しまれている「ひょうたん島」は、新町川と助任川、福島川に囲まれたエリアが瓢箪形をしているので、このように呼ばれている。ところが江戸時代には、このエリアを示す「ひょうたん島」の地名はない。
江戸時代の「瓢箪島」は、徳島城に隣接する西の丸・御花畠と出来島の間の小さなエリアで、武士の住む武家地だった。同所にあった堀が瓢箪の形に似ていたため瓢箪島の地名が生まれたのだ(「阿波志」徳島城博物館蔵)。ちなみに、江戸時代には漢字表記、今日はひらがな表記と、使い分けがなされている。この違いが大切だ。
この瓢箪形の堀は、現代では前川橋へ通じる道路になっていて、その痕跡はみられない。元は、徳島城と出来島とを仕切るために設けられた軍事的なものであったという(『徳島市民双書・28 
 徳島城』)。この瓢箪堀は、もとは助任川に通じていたが、築堤されたため水が充分に入らず、江戸時代前期には芦原となり、650坪と310坪の二つに分かれていた(「出来島富田佐古御絵図」国文学研究資料館蔵)。
瓢箪島は徳島城に近かったので武家地として早くから成立し、寛永年間(1624~1644)にはすでに武家屋敷が確認できる(「忠英様御代御山下画図」国文学研究資料館蔵)。正保3年(1646)の「阿波国徳島城之図」では、徳島城西の丸と出来島の間の広域エリアが「瓢箪島」と記されている。この時点では御花畠は未成立だ。寛文5年(1665)の「阿波国渭津城之図」(徳島県立博物館蔵)では御花畠は成立している。
武家屋敷を管理した普請奉行が享保17年(1732)に作成した「御家中屋敷坪数間数改御帳」には、津田藤内(350石)436坪、森田林助(315石余)844坪、井上分蔵(のち太郎左衛門・200石)720坪、斉藤弥三右衛門(150石)440坪、林与九郎(150石)514坪、長谷川甫庵(150石)346坪の6軒の武家屋敷が登載されている。いずれも知行取りの藩士ばかりだが、たった6軒しか武家屋敷がないのに「瓢箪島」の地名が付けられたのは、特徴的な瓢箪形をした堀があったからに他ならない。
ただし、天保14年(1843)に12代藩主斉昌が隠居し徳島城西の丸で暮らし始めると御花畠は拡充され、それに伴って瓢箪島の武家屋敷は収公されたものと思われる。さらに明治2年(1869)3月には練兵所となっている。
地名の元になった瓢箪堀は明治時代以降も残った。明治22年(1889)に落成した徳島監獄署(のち徳島刑務所)の写真を見てみると、水は少なそうだが堀は顕在だ。人々は監獄といわず「瓢箪堀」と呼んだのだという(『写真集 徳島百年 上』)。こんな話が伝わっているのは、瓢箪堀が江戸時代から続く名残として市民の記憶に残っていたからだろう。しかし、現在では瓢箪堀は埋められ道路となり、その痕跡は全くみられない。
音読みは同じだが、ひょうたん島には、江戸時代の武家地の「瓢箪島」と現代のクルーズで親しまれる「ひょうたん島」があることがお分かりいただけたと思う。同じ地名であっても、その内実は全く異なっていたのだ。
地名には幾多の歴史が刻まれ、現代に至っている。だから地名は歴史遺産といえるのだ。

参考文献:
『写真でみる徳島市百年』、徳島市役所、1969年
『写真集 徳島百年 上』、徳島新聞社、1980年 
『徳島市民双書・28 徳島城』、徳島市立図書館、1994年 
『日本歴史地名大系37 徳島県の地名』、平凡社、2000年
高田豊輝著・発行『阿波近世用語辞典』、2001年
『徳島城下絵図図録』、徳島城博物館、2012年(初版2000年)
[ 写真1 ]
「阿波国渭津城下之絵図」、天和3年(1683)、徳島城博物館蔵。武家地の瓢箪島と出来島。
この図では表現されていないが、その間が瓢箪堀。

 

[ 写真2 ]
大正13年(1924)に撮影された徳島刑務所(もと徳島監獄署)。手前が瓢箪堀。徳島編さん室提供。

 

「鷹匠(たかじょう)町」 ―城下町徳島の地名4― 〜第16回〜

現在は飲食店等の集まった歓楽街となっているが、鷹匠町は江戸時代から続いた歴史的な地名だ。
鷹匠とは聞きなれないが、江戸時代、藩主が鷹狩に使用する鷹を調教した武士のことをいった。鷹匠の屋敷が集まったので、「鷹匠町」の地名が生まれた。
鷹狩は飼い馴らした鷹を放って野禽・小獣を捕えさせる狩猟で、古代から行われた。戦国時代から江戸時代にかけては武家が独占し、江戸時代には将軍家を頂点とする御鷹の支配が確立した。鷹狩は将軍や大名など、一部の者に限られた、武士のステイタスシンボルとなった。
鷹狩を担った鷹匠は、江戸時代を通じて20人前後もいた。延宝4年(1674)頃までは御鷹師と呼ばれたという。身分は徒士格で禄高は4人扶持・支配7石程度(実収は14石2斗で、現在の金額にすると年収は142万円ほどとなる)。毎年8月から翌年2月まで自宅で鷹を預かって飼育したが、殿様の鷹なので人よりも偉かったという。鷹匠は気遣いがひどく、長生きはできなかったというから、困難をともなう役職だった(『阿波近世用語辞典』)。
江戸時代の「鷹匠町」は、現代の徳島市鷹匠町1丁目付近にあたるが、寛永8年(1631)から同13年(1636)までの時期の城下町徳島を描いた「忠英様御代御山下画図」(国文学研究資料館蔵)には宅地化されていない村状態であった。この時期には鷹匠がどこに住んだかは定かではない。
正保3年(1646)の「阿波国徳島城之図」では、同所は宅地化され武家地となっているが鷹匠の屋敷ではない。鷹匠の住んだ「鷹師町」は伊賀町3丁目付近に見える。
寛文5年(1665)の「阿波国渭津城之図」(徳島県立博物館蔵)で初めて、鷹匠町の位置に「鷹匠屋敷」が見える。
つまり、「鷹匠町」の成立は17世紀の中頃だ。これ以降、同地は鷹匠町と呼ばれた。ただし、幕府の生類憐みの令の影響を受けて、元禄6年(1693)9月には「小川町」に町名が変えられた(『阿淡年表秘録』)。後に鷹匠町に復帰している。
鷹匠の屋敷が集まったので鷹匠町という地名が誕生したのだが、皮肉にも江戸時代後期には鷹匠は2人しか住んでいなかった。それはなぜだろうか。
阿波九城が廃止された17世紀中頃には城下町徳島は大きな再編期を迎えた。冨田地区は武士や足軽の屋敷地として急速に造成された。この新興住宅地に、殿様の鷹を扱う鷹匠たちは、優遇され屋敷を与えられて「鷹匠町」が誕生した。しかし、その後、鷹匠たちは屋敷替えを命じられ他へ転出し、「鷹匠町」という地名だけが残った。
鷹匠たちは同町に住み続けなければいけない役職上の理由はなかったようだ。城下町徳島を見渡してみると、家老の稲田家や賀島家などのように、江戸時代を通じて同じ屋敷地に住み続けたケースは散見される。これは徳島城の大手にあたる寺島口を守備するという軍事的な理由と推定される。鷹匠には、このような積極的な理由は見いだせない。その結果、鷹匠のほとんどいない「鷹匠町」となったのだ。
なお、武家地であった「鷹匠町」が今日のように歓楽街となったのは、町人地として賑わった富田町の南隣に位置していて、しかも交通の便が良かったからであろう。
鷹匠町は、殿様の鷹を扱う武士(鷹匠)の屋敷が集まった町から、徳島を代表するほどの繁華街・歓楽街へと移り変わった。江戸時代から現代にかけて、これほど大変身したケースは珍しい。
地名には思わぬ歴史が埋もれている。それだから地名は面白い。

参考文献:
神河庚蔵編・発行『阿波国最近文明史料』、1915年
『日本歴史地名大系37 徳島県の地名』、平凡社、2000年
高田豊輝著・発行『阿波近世用語辞典』、2001年
福田千鶴『江戸時代の武家社会 ―公儀・鷹場・史料論』、校倉書房、2005年
[ 写真1 ]
「阿州分限帳」、万延元年(1860)、徳島城博物館蔵。佐野文蔵と香川茂一郎が鷹匠。

 

[ 写真2 ]
「阿波国渭津城下之絵図」、天和3年(1683)、徳島城博物館蔵。
西富田の左上に、「台所人やしき」と並んで「鷹匠やしき」が見える。

 

「二軒屋町」 ―城下町徳島の地名3― 〜第15回〜

 城下町徳島の南の玄関口にあったのが二軒屋町。阿波五街道と呼ばれた官道の一つ、土佐街道沿いに、江戸時代中期に成立した新興の町人地だ。
 城下町の範囲は、東は安宅渡し場、西は佐古二本松、北は万福寺、そして南が勢見ケ鼻とされたが、江戸時代中期以降、城下町は拡大の一途を辿った。そこで生まれたのが、「郷町」と呼ばれた新興の町人地だ。郷町(ごうまち)とは、郡(こおり)町とも呼ばれ、城下の本町(ほんまち)に対して郡奉行(のち郡代)管轄下で店舗を構え商業を許され町を形成した場所だった(『阿波近世用語辞典』)。郷町は屋敷の年貢と夫役を免除された。城下町徳島近辺では、淡路街道沿いの助任郷町、伊予街道沿いの佐古郷町、福島築地にできた福島郷町、そして土佐街道沿いの二軒屋町が、四郷町と呼ばれ存在した。他の三町は、既存の町に沿って外側に発展していったが、二軒屋町だけ新町の東から離れて成立した。この町だけ名前に郷町が付いていないのも興味がもたれる。
 なお城下町徳島以外にも郷町があった。地方の郷町は、池田村大西町(三好市)・脇町(美馬市)・川島町(吉野川市)・市場町(阿波市)・小松島浦郷町(小松島市)・富岡町(阿南市)などである。
 二軒屋町の町名は、その名のとおり、古くは人家が2軒しかなかったからという(「阿波志」徳島城博物館蔵)。ユニークな町名だ。しかし、江戸時代前期こそ人家が少なかったが、時代が下るにつれて家数が飛躍的に増え、江戸時代後期には230軒ほどになった。だから、二軒屋町の名前は、城下町徳島における新興商業地の代名詞と言えるだろう。
 二軒屋町の名前が史料に現れるのは17世紀の後半のことだ。紙の専売権を有していた紙屋町からの訴えで、佐古・富田・助任・二軒屋の郷町において紙の売買が禁止された(『藩法集3徳島』№590)。この一件は、城下町の外にも町場が誕生し、藩はそれを郷町として認識していたこと、郷町での紙売買が既得権(専売権)を持っていた紙屋町を脅かすまでに成長していたことがうかがえる。既得権を有していた内町などの商人たちは、郷町の商人を競争相手と認識し始めたことであろう。
四郷町の町場化は著しく、元禄6年(1693)には町方に編入され町奉行支配となっている。この時点の四郷町の家数は、二軒屋町は61軒、佐古郷町が112軒、助任郷町29軒、福島郷町は3軒であった。二軒屋町は江戸時代中期には堂々たる町になっていたことが分かる。ただし、四郷町は元禄10年には再び村方に戻された。
二軒屋町は、その後も順調に発展を遂げ、寛政元年(1789)には家数217軒、人数749人までに増えた(「御巡見使様御用三郷町家数人数相改指上候控」徳島城博物館蔵)。同4年、四郷町は再び城下町に編入された。当時、郷町は繁栄し、内町や新町、福島町、助任町、佐古町といった本町を衰微させるほどであったという(「仕置所ニ而為書抜候品書集置帳」国文学研究資料館蔵)。これ以降、四郷町は町奉行支配下に置かれたのである。
 郷町は本町とは異なり、もとは村であったので、土地は郡代支配で依然として「村」、家屋と住民は町奉行支配の「町」なのだ。このように複雑なあり方に至ったのには理由がある。村は生産地で年貢を負担する場所であったが、町は年貢を負担しない。人家が集まり町場化したからといって、藩はたやすく村を町にすることはなかったのだ。こうした事情から郷町は、土地は郡代支配の村、家屋と住民は町奉行支配の町となったのだ。
 二軒屋町の家数は実に100倍以上、佐古郷町も伊予街道沿いに鮎喰川の土手まで伸びたが、郷町の伸展はそのまま城下町徳島の発展を物語っている。徳島市は市制の施行された明治22年(1889)には全国で第10位の人口を誇る大都市に成長していたが、その要因の一つとして、二軒屋町を初めとする郷町の躍進をあげることができそうだ。

参考文献:
『日本歴史地名大系37 徳島県の地名』、平凡社、2000年
高田豊輝氏著・発行『阿波近世用語辞典』、2001年
根津寿夫「郷町二軒屋町の成立と展開―近世都市徳島研究序説―」、『地方史研究』328号、
地方史研究協議会、2007年
[ 写真 ]
「二軒屋町内図」徳島城博物館蔵、明治12年(1879)~17年(1884)

 

「通町」 ―城下町徳島の地名2― 〜第14回〜

 通町といえば、「エビスさん」で有名だ。1月10日が本祭で、9日が宵エビス、11日が残りエビス。この3日間は、事代(ことしろ)主(ぬし)神社は商売繁盛や家内安全を願って参拝する人たちで大賑わいとなる。しかも多くの露店が立ち並び、通町は人があふれ活気で湧きかえる。まさに通町は「エベスさん」の町といえる。
 しかし、事代主神社は江戸時代から通町にあった訳ではない。明治3年(1870)、大参事井上高格(たかのり)が旧城下町の繁栄策として八万の夷山から、現在の位置に移したとされる。これほどの賑わいをもたらすことになろうとは、辣腕の政治家井上高格も予測していたかどうかは分からない。
 さて、通町は江戸時代にはどのような場所だったのだろうか。徳島城鷲の門を出て、右側に曲り暫く進むと、寺島川に架かる寺島橋(JR跨線橋、市立文化センター裏)にあたる。橋を渡った右側が家老稲田家(14,361石)の屋敷、左側は徳島市役所になっているが、家老賀島家(10,000石)の屋敷だ。両方とも4,000坪前後の広大な敷地を持った武家屋敷。その間を西進すると通町に至る。つまり、通町は徳島城の玄関口にあたる町人地だった。
 通町の名前は、阿波の官道(主要道路)である伊予街道・土佐街道・讃岐街道筋にあたり、南方と西方から徳島城に入る道筋に位置したことから、この名前があるとされている(「阿波志」徳島城博物館蔵)。
 交通の要地に位置していたため、通町の町人は他国から手紙などを運んで来た飛脚を宿泊させる飛脚宿を務めた(「藩署記聞 坤」徳島県立図書館蔵)。それぐらい重要な町だった。
 通町のある「内町」は、天正14年(1586)の徳島築城とともに設けられ、御用商人たちの店舗が集まった町だ。新町も江戸初期から存在するが、内町より遅れ新しくできたので「新町」と呼ばれる。だから内町のことを「寺島古町」と呼ぶこともあった(「紙屋町宛判物」『阿波国徴古雑抄』)。
 内町には、城下町開設後まもなく、堺の商人、魚屋立安(渡辺道通)や塩屋宗喜らの屋敷が置かれた。立安は有名な千利休の甥にあたる人物だ。その父は蜂須賀正勝に仕え戦死したので、立安は利休のもとで成長した。その負い目もあったろうし、天下人秀吉に近かった利休の縁者であることに着目し、蜂須賀家政は立安を呼び寄せたのである。宗喜も利休の高弟だ。家政は両人を特別に優遇し、寺島の火事により屋敷を失った彼らに住宅の手配をするよう直接家臣に指示を出している(「蜂須賀家政判物」木戸洸氏蔵)。内町は、魚屋立安や塩屋宗喜といった大名蜂須賀家に関わりの深い豪商の集まった町であった。
 内町は大名蜂須賀家と結び付き恩恵を受けてきた町だったから、明治維新の影響は免れなかったのだろう。中心商業地の地位から転落し、荒廃しかかったのかもしれない。そのため、井上高格は、旧城下町の繁栄策として、内町地区のほぼ中央、通町2丁目に事代主神社を移設したのであろう。
 明治時代になると、通町1丁目には舶来小間物商福井肇商店や写真館、同2丁目にはアメリカ製の高級時計ウォルサムなどを扱った時計商桑村安太郎商店と舶来自転車ラーヂ号の代理店であった多田商行、藤村度器販売店、西洋小間物商の冨士谷善平、同3丁目には西洋各国時計商の佐々木宇三郎、真綿糸物商小嶋時太郎商店などが立ち並び、時代の先端を行く町になった。つまり、通町は伝統的な御用商人の町から輸入品を扱うようなハイカラな町へと転身を遂げたのだ。城下町徳島の江戸から明治への移り変わりを考える上で、通町のケースは注目される。
 ところで、最近、タレント北野武さんの祖母うしさんが、明治25年(1892)頃まで通町2丁目で暮らしていたことが分かった(NHK「ファミリーヒストリー」、平成28年12月21日放送)。うしさんは竹本八重子と名乗る女義太夫の太夫(語り手)として知られるが、家業は粉屋であったという。
 徳島の歴史の一コマが明らかになったようで興味深い。城下町徳島には無数の人びとが暮らしており、歴史的には知られていない、そうした無名の人たちに焦点をあてて民衆の視点から徳島の歴史を解明していきたいものだ。

参考文献:
岩村武勇氏『徳島県歴史写真集』、1968年
『写真でみる徳島市百年』、徳島市役所、1969年
河野幸夫氏『徳島・城と町まちの歴史』、聚海書林、1982年
『日本歴史地名大系37 徳島県の地名』、平凡社、2000年
[ 写真 ]
岩村武勇氏収集資料「南海徳島 豪商銘工魁」個人蔵

 

「眉山」 ―城下町徳島の地名1― 〜第13回〜

 最高標高290mで、南西から北東にかけて約4km、幅約2kmの山域を持つ眉山は、その雄大な姿と落ち着いた佇まいから徳島市のシンボルとされている。中腹や山麓には多くの神社や寺院が集まり、眉山は信仰の場でもある。以前には小説や映画にもなったから、眉山の名前を知らない人はいないだろう。
ところが、眉山の呼称が使われ出したのは、そんなに古いことではない。今から約200年前の江戸時代後期からだ。それまでは、山全体の呼称ではなく、山麓の地名をとって富田山や佐古山、八万山等と呼ばれた。また麓には寺町が展開していたので、寺社等との関係から大滝山や勢見山、万年山と呼ばれた。
眉山の名で有名なのは、天平6年(734)3月に、淳仁天皇の兄にあたる船(ふなの)王(おおきみ)が難波宮行幸に供奉した時、遥かかなた阿波国の方角に見える山影を望んで詠んだとされる「眉のごと 雲居に見ゆる 阿波の山 懸けて漕ぐ舟 泊り知らずも」(『万葉集』巻六・雑歌)の歌であろう。言うまでもないが、天平の頃から眉山と呼ばれていた訳ではない。「眉のごと雲居に見ゆる」は遠い山を表現したに過ぎないと、文化12年(1815)成立の藩撰の地誌「阿波志」(徳島城博物館蔵)では明確に否定されている。
ただし、この歌をもとにして、後世、眉山の呼称が生まれたと考えることは充分可能だ。
また、京都の歌人有賀長伯が、享保9年(1724)に蜂須賀家の歌会で、「眉山の霞」と題して「立春のみどりをこめて佐保姫の粧ひふかく霞む山まゆ」と詠んだのを起源とする説もある。いずれにしても、眉山の呼称は江戸時代には学者や僧の間では用いられたが、庶民には馴染みが薄く、江戸時代後期になって、ようやく定着したと考えられる。文化8年(1811)に大坂で刊行された阿波の観光案内書「阿波名所図会」には、眉山の地名が使われており、江戸時代後期には、眉山の地名が一般的に使われ出したものと考えられる。
眉山がクローズアップされたのは近代のことだ。明治時代の中頃、白糸の滝や三重塔、祇園社を中心に大滝山公園が造成され、桜が植えられた。桜の名所となった同公園は、料亭も開業し、徳島市最大の行楽地になったという。昭和20年の空襲でそのほとんどは灰燼に帰したが、今では想像することもできない歴史が眉山には眠っているのだ。

参考文献:
『写真でみる徳島市百年』、徳島市役所、1969年
河野幸夫氏『徳島・城と町まちの歴史』、聚海書林、1982年
『日本歴史地名大系37 徳島県の地名』、平凡社、2000年
[ 写真 ]
「徳島眉山公園地全図」徳島城博物館蔵、眉山公園の計画図

 

商品券になった「白醤油」 ―城下町の食文化 3- 〜第12回〜

 今回は日本の代表的調味料として親しまれている醤油。私たちの食生活に欠かせない醤油は日本独特の調味料のひとつで、大豆と小麦を原料にして発酵させ、これを搾って醸造したものだ。醤油の原型は古代中国から伝わった醤(ひしお)で、穀醤(こくびしお)・草醤(くさびしお)・魚醤(うおびしお)・肉醤(ししびしお)があり、米・麦・豆類を発酵させた穀醤から味噌や醤油が生まれた。醤油は室町中期より使われ始め、関西で発達し、江戸中期には関東でも醸造された(中村幸平著『新版・日本料理語源集』、林玲子・天野雅敏編『日本の味 醤油の歴史』)。
醤油は、濃口醤油のほか、色の淡い薄口醤油、大豆を主原料とした溜り醤油、塩水の代わりに醤油を使って仕込んだ再仕込み醤油、大豆の使用料を減らして淡色に仕上げた白醤油と、さまざまだ。
主産地は、濃口醤油が千葉県野田と銚子、薄口醤油は兵庫県龍野と高砂、香川県小豆島、溜り醤油は愛知・岐阜・三重県、再仕込み醤油は山口・広島県、白醤油は中部地方となっている(『語源・由来 日本料理大事典』上巻)。
このように醤油産地が誕生したが、城下町徳島にも名物醤油が存在したことは知られていない。江戸時代末期の阿波・淡路両国の特産物を表した番付「御国産名物見立相撲」(徳島県立博物館蔵)を見ると、西の関脇に「冨士谷白醤油」がある。200件近い品目のなかで大関に次ぐ第2位を占めているのだ(江戸時代の番付には横綱はなく、大関が最上位だった)。もっとも阿波の特産物の代表である藍や塩、砂糖は大関より上位にあたる番付の中央に位置付けられているため、単純に2位とは評価できないが、指折りの有名商品であったことは間違いがない。
白醤油は、色がほとんどなく透明に近いことから命名された。淡泊な味と香りで、つゆ・吸物・鍋料理などに使用されたが、長期保存はきかず変色してしまう。白醤油の誕生は、19世紀初頭の三河国(愛知県)など諸説がある(井奥成彦「醤油の味のちがい」、林玲子・天野雅敏編『日本の味 醤油の歴史』所収)。
城下町徳島で醸造された白醤油は醤油研究史の上では全くの空白だ。しかも、その白醤油が徳島ではブランド化し、大人気だったから実に興味深い。
人気のあまり、江戸時代の商品券にあたる「白醤油切手」が発行されていたのだ。縦16.7cm、横10.3cmの切手版木(写真)は、全面に墨が残り黒々と光沢を放っているが、浮き彫りされた表面の文字はすり減っている。余程使い込まれたのだろう。往時の白醤油の人気がうかがわれるようだ。裏面には版木の製造年月を示す「白醤油切手 天保三歳辰(1832年)四月吉日拵之(これをこしらえる)」という墨書がある。表面は「白醤油壱升 徳島二軒屋町冨士谷久兵衛」とあり、この切手(商品券)を販売元の二軒屋町の冨士谷家に持参すると白醤油1升と交換してくれるのだ。
ちなみに、二軒屋町は城下町徳島の南の玄関口にあたり、藩祖蜂須賀家政(1558〜1638)が城下町を開設した頃は人家が2軒しかなかったことから、この名がある(「阿波志」徳島城博物館蔵)。
ただし19世紀には230軒ほどの大きな町に成長している。冨士谷家は、江戸時代後期に同町の町年寄(町長)を務め町政をリードするとともに、醤油など幅広く商売を展開した豪商だ。
白醤油の値段は具体的には不明だが、冨士谷家で扱っていた醤油は1升が銀1匁(もんめ)(現代では約2,000円)で、白醤油も同程度と考えられ、庶民には手の届かない高級品だったことだろう。
同家が扱っていたのは白醤油だけでなく、他の醤油屋とともに讃岐の観音寺醤油を移入し販売するとともに、これの醸造を試みている。観音寺醤油の販売先は蕎麦屋に限定されるので濃口醤油であろう。
江戸後期、城下町徳島では、料理によって適した各種の醤油を入手できる食環境に到達していたものと考えられる。それは上層の都市住民や料理屋に限定され、庶民のものになっていなかったかもしれないが、城下町徳島の食文化を探る上で重要だ。

参考文献:
『語源・由来 日本料理大事典』上巻、ニチブン発行、2000年
中村幸平著『新版 日本料理語源集』、旭屋出版発行、2005年
林玲子・天野雅敏編『日本の味 醤油の歴史』、吉川弘文館発行、2005年
根津寿夫「白醤油切手版木」(毎日新聞徳島版「阿波歴史の華 城博学芸員ノートから」2011年2月16日)
[ 写真 ]
「白醤油切手版木」徳島城博物館蔵

 

殿様も食べていた「焼き味噌」 ―城下町の食文化 2- 〜第11回〜

 殿様は、普段、何を食べていたのだろうか。講演会で、こんな質問を受けることがある。その答えはなかなか難しい。
50年間も藩主の座にあった5代藩主蜂須賀綱矩(つなのり)(1661〜1730)は鳥肉が好物だった。
隠居の2年後、70才の古希祝いの料理に、汁物と煮物の両方に鴨肉が入れられ、献立書には「御好被遊(おこのみあそばるる)」と記されている。つまり、綱矩は鴨肉が大好物で、その好みを反映して祝い膳が用意されたのだ。恐らく若い頃には随分と鳥肉を食べたのではないか。そのおかげで殿様の仕事を全うできたのかもしれない。
こうした殿様の祝い膳、行事食については少し分かるようになってきたが、日常的な食事は依然として藪の中だ。現代の私たちもそうだが、毎日変わらないことは日記には記さない。これは江戸時代の人々も同じだった。ただし、よく古文書を調べてみると、普段の食事を窺うことができることもある。
徳島藩主の国元での行動を記した日記、「万日帳」(国文学研究資料館蔵)を読むと、殿様の食事の一端がうかがえる。少し長いが引用してみよう。

「  朝六半時
一御食九分目宛 三度上ル
一御汁 三度上ル
一あまたい 片身半分上ル
一二ノ御椀 大こん輪切 三切上ル
たうふ 六切上ル
一いりぬかこ すきと上ル
一やき味噌 弐つ上ル

昼九ツ過
一御めし 九分目程宛 両度上ル
一御汁 かさいのり・たい
一御平皿 大こん輪切・山いも・花かつほ 壱度上ル
一二ノ御椀 よせたうふ・葛に 壱度上ル
一あへ物 はまくりのはしら・いわたけ すきと上ル
一やき物 あわひてんかく 弐ツ上ル
一やきミそ 壱ツ上ル
一ぬか漬たなこ すこし上ル 」

4代藩主蜂須賀綱通(つなみち)(1656〜1678)の延宝3年(1675)3月3日の朝・昼食の記事。
2月に風邪で体調を崩した綱通は、ようやくこの日に本復し、通常の食事に戻ったようだ。
朝7時の朝食は、元気にご飯と汁をそれぞれ3杯食べている。おかずは、甘鯛(焼いたものだろうか)を片身の半分、大根の輪切りを三切れと豆腐六片、煎ったぬかご(むかご)。食べた品の分量を記録しているのは、医師が綱通の回復状態を把握するためだろう。
12時過ぎの昼食もご飯を2杯食べ、食欲がだいぶ戻ってきたことが窺える。体調の悪かった2月の初めには、汁椀に6分目ほど盛られた大角(ささ)豆(げ)ご飯を湯漬けにして何とか食べていたからだ。

昼食のおかずは、煮物や和え物、焼物などが並び、鯛や蛤、蚫、豆腐、山芋といった食材も豊富で、大名の昼食は実に豪勢だ。
ここで注目したいのは「焼き味噌」である。味噌は大切な調味料で、日記には「味噌漬け」「味噌煎り」「山椒味噌漬焼き」などと味噌で味付けされた料理が散見する。しかし、味噌は調味料だけでなく、毎日の「おかず」でもあった。綱通は、ご覧いただいたように朝食と昼食、それに夕食にも焼き味噌を食べていたのだ。恐らく綱通は焼き味噌を好んでいたのだろう。
その味噌には、どのような秘密があったのだろうか。殿様の御膳に上げる味噌である「御膳味噌」や「焼き味噌」は、次のように理解されている。

「天正十五年(一五八七)阿波藩主蜂須賀家政公の家臣が、殿に供するみそを特別な製法で作り、それを口にした家政公が芳香と美味を讃えたことからこの名で呼ばれるようになったと言われます。徳島県では、朝食に味噌汁を作らず、もっぱら焼きみそやユズみそにして副食としました。この風習は他県に全く見られず「なめみそ」(副食にするみそ。ひしおや金山など)にされるほど美味な阿波みそとして「御膳みそ」は全国に知られる名物になったのです。焼きみその起源は、藩邸に仕える茶人の考案と伝えられ、藩主はこれを勤倹の勧めとして領内に配り以後阿波の朝は焼きみそに明ける習慣が生まれたと言われます。」(『とくしま味の四季』)

味噌を焼く時の用いた「焼き味噌皿」(写真)は、城下町徳島の武家屋敷の発掘調査でも発見されているから、焼き味噌を食べていたのは城下の人々にも一般化できる。また現代でも、60才位の方は、焼き味噌の香ばしいかおりを御存じだろう。
病気が快復した綱通は三食とも焼き味噌を食べているのは驚きだ。いや快復したから食べたのではなく、焼き味噌を食べて元気になったと考えることも可能だ。それは、牛肉や豚肉を食べなかった江戸時代、豆腐とともに味噌は重要なタンパク源だったからだ。味噌を炙って一工夫した焼き味噌は簡単なおかずで、しかも手軽な健康食だった。
殿様も食べた焼き味噌は、阿波徳島の伝統食の代表だったのだ。

参考文献:
『とくしま味の四季』徳島新聞社発行、1983年
『日本の食生活全集 36 聞き書 徳島の食事』農山漁村文化協会発行、1990年
春の企画展「阿波の食べ物事情」、徳島城博物館、2011年
[ 写真 ]
「蜂須賀綱通画像」徳島城博物館蔵、明治初年
[ 写真 ]
「焼き味噌皿」徳島市教育委員会蔵、江戸時代末期

 

徳島のかすていら ―城下町の食文化 1- 〜第10回〜

 江戸時代に城下町徳島で、カステラが作られ食べられていたことを御存じでしょうか。古文書にカステラが散見するので、今回は城下町徳島の食文化の一端としてカステラを取り上げることにする。
カステラの歴史は古く、天文12年(1543)の鉄砲伝来、同18年(1549)のキリスト教布教と同じく16世紀中頃にポルトガルより伝わったとされる。カステラの語は、カスティリア(のちスペイン)王国で生まれた菓子に由来する。珍しい南蛮菓子のカステラは急速に普及し、江戸時代の初めには早くもカステラの語が文献にみられるほど広がった。
それまでの日本の食習慣になかった砂糖や卵を多用したことから滋養に富み、病気見舞いなどの大事な贈り物として用いられ大名たちも食したという。江戸時代の初めには天下人や天皇に対する最高のもてなしとなっていた。江戸時代の中頃になると製法書が出版され普及し、全国的にカステラが作られていたと推定されている(江後迪子氏)。地方伝播に一役かったのは長崎に遊学していた医学・蘭学の徒で、滋養に富むカステラを藩主や姫君たちに食べさせるために製法を学び伝えたとされる。
城下町徳島のカステラの歴史は江戸時代中期に遡る。徳島藩中老の奥方が、カステラのレシピを書き残している(「かすてらやきやう」賀島泰雄氏蔵)。うどん粉40匁(150g)と砂糖43匁(161.25g)、卵4個を入れて鍋で焼くと、カステラができるとある。美しい料紙に認められ奥方たち女性の宝物のように伝来したものだ。江戸時代中期に徳島でカステラが作られたことが窺える貴重な資料といえる。
昨年、徳島市の魅力を情報発信する「徳島シティプロモーション事業」の研究会の提案で、このレシピを現代のパティシエ岡山康伸さんに依頼し復元するとともに、「徳島城 殿様かすていら」と命名した。素材にこだわり、砂糖は阿波和三盆を使用している。砂糖が随分入っているように思えるが、ほんのりとした甘さが特徴だ。そのお披露目会を平成28年3月12日に開催し、多くの方に参加いただいた。予想より美味しい、優しい味などという、たくさんの感想をいただいた。
ところで、徳島城でもカステラを焼き食べている。蜂須賀斉裕(1821~1868)が13代藩主となり初入国を果たした弘化元年(1844)に、そのお祝いのために家臣たちを徳島城御殿に招いて豪華な食事でもてなした(徳島藩畳刺棟梁下山清右衛門日記「御用方草案」徳島城博物館蔵)。そのデザートにカステラが出されていたのだ。この時には藩士や藩に仕えた職人、町人たち、あわせて数百人もの人々が祝い膳を食べたので、カステラが一挙に普及したことが指摘できる。ちなみに、抹茶を飲みながらカステラを食べている。
慶応3年(1867)、蜂須賀斉裕の招きに応じてイギリス公使パークス一行が徳島城を訪問した。その先乗りで来訪した外交官アーネスト・サトウ(1843~1929)が城で饗応を受けた時にもカステラが出されている。
弘化元年に振る舞われた際にはカステラの感想は記されていない。それは当時の人々が定番のカステラの味を知らなかったからだろう。勿論、殿様のもてなしにけちを付ける訳にはいかなかったからともいえる。
アーネスト・サトウは、徳島城のカステラを食べて忌憚のない感想を述べている。曰く、「固くて、まずい」と(アーネスト・サトウ『一外交官の見た明治維新』)。徳島城のカステラは、サトウのイメージしたものとは大分違ったようだ。当時は、箸を何本か持って卵と砂糖をかき混ぜていたので撹拌が上手くいかず、玉子焼きのようなものだったという(岡山氏)。しかも作り置けば固くなってしまう。徳島城のカステラは、そんなものだったのだろう。
徳島城のカステラは祝儀に供されたもてなしの品で、限られた人しか食べることができない珍しいものだった。その一方で、南蛮菓子のカステラが徳島で綿々と受け継がれていたことは注目される。徳島の人々がどのような思いでカステラを食べたのか。まことに興味は尽きない。
ところで、「徳島城 殿様かすていら」は販売されている(徳島城博物館は期間限定)。殿様にもてなされた気分で、旧徳島城表御殿庭園を眺めながら抹茶と一緒に御賞味いただきたい。

参考文献:江後迪子「文献からひもとくカステラの歴史」(『カステラ文化誌全書』、平凡社、1995年)
『カステラ読本』、カステラ本家福砂屋 、2005年
赤井達郎『菓子の文化誌』、河原書店、2005年
特別展図録「阿波の華 徳島城」、徳島城博物館、1999年
春の企画展「阿波の食べ物事情」、徳島城博物館、2011年
[ 写真 ]
「かすてらやきやう」賀島泰雄氏蔵

 

城下町徳島の飲み水 〜第9回〜

豊臣秀吉や徳川家康が天下を治めた時代、全国各地に城下町が誕生したが、その多くは河口部や臨海地に建設されることが多かった。それは水運の便を意識した選択だった。江戸時代が始まって暫くすると、そのねらいは的中し、水上交通によって城下町は大発展を遂げた。
立地を活かし近世城下町は「水の都」として栄えたが、その一方で大きなデメリットもあった。それは、人々の生活に不可欠な飲み水に恵まれなかったのだ。城下町は海に近いため井戸水に塩気が入り、飲料に堪えなかった。
そこで、水源から水を引いて飲み水の確保が図られた。徳川将軍のいた江戸では、承応2年(1653)に、全長約43㎞に及ぶ玉川上水を完成させた。元禄期(1688〜1704)には100万人都市に成長した江戸の生活を支えたのは玉川上水を初めとした上水道だった。西日本でも、赤穂や鳥取、福山、高松等の城下町では、江戸前期に上水道が整備された。勿論、上水道を引かなかった大坂のような都市もあった。大坂は、井戸水は塩気を帯び鉄(かな)気(け)が入り飲むことができなかったので、河水を使った(『近世風俗志(守貞謾稿)』)。
徳島は河口部に立地した城下町だったので、多くの井戸水は飲料には適さなかった。大正8年(1919)、徳島市の井戸調査では、6,777ヶ所のうち飲料に適さないものが3,358で、実に49.5%を占めた。しかも、徳島市の近代水道の敷設・給水開始は大正15年(1926)のことだった(近代水道の最初は、明治20年の横浜)。
それでは、江戸時代から明治・大正時代、徳島の人々はどこから飲み水を得ていたのだろうか。
眉山には、錦竜水や瑞巌水、鳳翔水、八幡水といった湧水があった。これらを城下町の人々は飲み水として利用していたのだ。特に、錦竜水は城下随一の良質な水として評価され、明治41年(1908)の皇太子行啓時の御料水に選ばれたほどだった。
現代では誰でも自由に錦竜水の水を汲み飲むことができるが、江戸時代には徳島藩が厳重に管理し、水売り人によって水が供給されていた。その歴史は古く、江戸時代前期の延宝4年(1676)、藩は水売り人を16人に限定した(「藩署紀聞」徳島県立図書館蔵)。明治時代になると、水桶を積んだ車を引く水屋が市中を回って販売し、各家では軒先に「水入用」の木札を出しておくと給水したのだった。
ポルトガルの外交官・文学家、ヴエンセスラオ・デ・モラエス(1854〜1929)も眉山の湧水の恩恵を受けた一人だ。モラエスは現在の伊賀丁2丁目の長屋に住んだが、井戸水は洗濯や入浴、庭のまき水に使用し、飲み水は全て八幡水(八幡神社の湧水)等を購入したという。
明治22年(1889)には全国第11位という多くの人口を抱えた大都市徳島において、大正15年(1926)まで上水道がなくても人々の生活が成り立っていたのは、ひとえに眉山の優れた湧水のおかげだった。しかし注目すべきは、湧水と井戸、飲み水とそれ以外の生活雑水で使用分けした人びとの生活習慣だ。そこには水を大切にした徳島の人びとの暮らしの知恵があった。

参考文献:『日本水道史 総論編』 社団法人日本水道協会 1967年
『日本水道史 各論編Ⅲ 中国・四国・九州』 社団法人日本水道協会 1967年
『徳島市水道四十年史』 徳島市役所 1966年
河野幸夫氏『徳島・城と町まちの歴史』、聚海書林、1982年
団 武雄「徳島城下と飲料水」(阿波郷土会『ふるさと阿波』33号 1962年)
[ 写真 ]
「錦竜水の水売りと水汲みの奉公人」大正4年(1915) (『写真でみる徳島市百年』)

 

水軍の町 -福島・安宅・沖洲― 〜第8回〜

 藩主の乗る御座船を取り囲むように整然と、そして厳かに進む大小70艘もの大船団。これが徳島藩蜂須賀家の海の参勤交代であった(「参勤交代渡海図屏風」参照)。
阿波・淡路は、古来より水軍の活躍が目覚ましかった土地柄だ。阿波水軍は源平争乱の頃に名前がみえ、また淡路水軍の安宅(あたぎ)氏は三好長慶(ながよし)の覇権を支えた。蜂須賀家は文禄・慶長の役や大坂の陣において活躍したが、それは森家を中心とする水軍の働きによるところが大きい。森家は、戦国時代に阿波国を治めた細川家・三好家の舟師として土佐泊城(鳴門市)にいた海の豪族。森志摩守(しまのかみ)村春は四国をほぼ支配下においた長宗我部元親の侵攻を守り切った、阿波では唯一の武将だ。天正13年(1585)の四国攻めでは、秀吉軍の先導役をつとめ戦功があり、蜂須賀家政から、3,026石余が与えられた。この時、本拠を土佐泊から椿泊(つばきどまり)(阿南市)に移され阿波の海上の押さえとされた。蜂須賀家は森家を取り込み、徳島藩水軍として編成していったのである。
船頭や船を漕ぐ水主(かこ)、さらには造船技術を有した船大工が集められ、江戸前期には徳島藩水軍組織が整備された。水軍の基地は、はじめ徳島城の北東にあたる常三島(じょうさんじま)南東部に置かれていたが、寛永末年(1640年頃)に福島東部に移転した。徳島藩では水軍を「安宅(あたけ)」と呼んだが、水軍の基地が福島東部に移ったために同所が安宅と呼ばれるようになった。この水軍の基地には100隻を超える船が収容され、同所で造船や修理を行うことができた。基地は東西約460m、南北約300mほどで、現在の徳島市城東中学校がすっぽりと収まってしまうほどの大きさだ。
徳島藩領には多くの藩有林が存在したが、その材木は水軍の船を造り修繕することを目的としたものだった(『徳島県林業史』)。蜂須賀家が水軍をいかに重視していたかが窺われる。恐らく、蜂須賀家には阿波・淡路両国の海域を守るという強い自負があったからだろう。
福島の四所神社以東は水軍が管理・支配する地域で、町奉行の警察権が及ばない場所だった。
船頭や水主らは優遇され、扶持米以外に屋敷地が与えられた。沖洲に約170軒も置かれた水主の屋敷は、表口5間・奥行15間で75坪もの広さだった。水主は船を漕ぐため日常的に体を鍛え、明治時代になると、恵まれた体格を活かして軍人や警察官になったという(『阿波蜂須賀藩之水軍』)。
船大工が屋敷を与えられたのは、安宅の南に位置した大工島(徳島市大和町)で、江戸時代の絵図によれば55軒を数える。藩主の乗った御座船を造った船大工の技術は卓越していたことだろう。腕に覚えのあった彼らは、廃藩後は自立の道を歩み、木工業に従事し、箪笥や仏壇、下駄などを造り販売した。これが徳島市の地場産業、渭東の木工業の始まりとされる。
身近な水軍の歴史や伝統が今も残っていて、徳島の歴史研究は本当に興味が尽きない。

参考文献:団武雄氏『阿波蜂須賀藩之水軍』、徳島市立図書館発行、1958年 根津寿夫「徳島藩水軍の再編 ー武家集団における秩序の形成ー」(高橋啓先生退官記念論集『地域社会史への試み』所収、2004年)
特別展図録「大名の旅 -徳島藩参勤交代の社会史―」、徳島城博物館発行、2005年
[ 写真 ]
「徳島藩参勤交代渡海図屏風」(出船) 蓮花寺蔵 徳島市指定文化財

 

水の都 徳島 〜第7回〜

 安土桃山時代から江戸時代の初めにかけて各地に城下町が誕生したが、その多くが現在の県庁所在地となっていることは以前にふれた。この時期に設けられた都市は、江戸時代だけでなく明治・大正・昭和、そして平成へと継承されたことになる。それは、戦国時代までの軍事だけに着眼した城地選びではなく、政治や経済を意識した場所選びの結果であろう。
この時期に設けられた城下町に共通する特徴として真っ先に挙げられるのは、水運に優れた立地だ。海外派兵や交易重視といった、天下人豊臣秀吉の国家構想や都市構想の影響なのだろうが、秀吉・家康の時代の城下町は、海に注ぐ河口部に選ばれることが多かった。河口部は護岸工事が難しく、城下町を建設する上では好条件とはいえなかった。しかし、近世大名の強大な力で工事を進め河口部に城と町を建設したのだ。
江戸時代に入り平和が訪れると、城下町はその立地を活かして水運を活用して栄えていく。水上交通に育まれた城下町は経済発展を遂げ、独自の文化を育み「水の都」となる。江戸や大坂を初め、各地の城下町も水運の恩恵を受けながら大きく成長したのが江戸時代であろう。
城下町徳島は、新町川や助任川などの大小河川が網状に乱流する中洲に設けられた城下町だ。河川は、今日では陸上交通に障害のように思われているが、船を用いることで多くの物資や人々を輸送することができたので、当時は水上の幹線道路だった。
城下町を流れる河川のなかで最も利用されたのは新町川であろう。それは城下町の中心商業地区であった内町・新町があったからだ。両町には「雁木(がんき)」と呼ばれる石階段の船着場や川湊もあった。江戸後期の旅行ガイドブック「阿波名所図会」を見ると、新町側にいくつも「雁木」が見える。恐らく、江戸時代には多くの船が泊まり時間を惜しみながら荷物の揚げ下ろしを行ったことであろう。勿論、築堤され石垣に囲まれた武家地でも「雁木」はあった。船は牛馬や大八車などよりも大量に物資を運べたので、町人だけでなく武士たちも有効利用したのだ。
佐古町は寛永年間(1624〜1644)に開発された新興の町だったが、寛文11年(1671)には47人もの住民が藩に願い出て、佐古川を広げて舟運の便の拡大を図ろうとした(『阿波藩民政資料』)。伊予街道口に立地した佐古町は、陸上交通に加え、水運の道が開け大きく繁栄していった。
水上交通は町人たちだけのものではなかった。藩主の参勤交代の際にも船を使って大坂まで移動した。徳島城を築いた頃は、現在の吉野川である「別宮(べつく)口」を用いたが、寛永時代の終わり頃(1640年)からは、沖洲と津田の間の「津田口」を利用することになった。藩主の乗る御座船(ござぶね)などを収めた水軍の基地が常三島(じょうさんじま)から福島東部に移転したのが大きな理由であろう。藩主は徳島城鷲の門から家臣たちに見送られ福島橋で連絡用の船に乗ると御船歌が歌われ太鼓が打ち鳴らされ、厳かに徳島藩主の参勤の旅が始まる。沖洲で御座船に乗り換え大船団を率いて大坂に赴くのだった。
城下町徳島は、今では想像できない水上都市だったのだ。

参考文献:団武雄氏『阿波蜂須賀藩之水軍』、徳島市立図書館発行、1958年
特別展図録「秀吉の町・家康の町」、徳島城博物館発行、2007年
特別展図録「描かれた城下町 -水都発見―」、徳島城博物館発行、2009年
[ 写真 ]
「阿波名所図会」眉山 徳島城博物館蔵(東條英機氏寄贈)
城下町の成長 -阿波九城解体と城下町― 〜第6回〜

蜂須賀家の家臣団は、同家の出身地である尾張(おわり)国(愛知県)やそれまでの領地であった播磨(はりま)国龍野(たつの)から入った武士により主に構成された。蜂須賀家は、細川氏や三好氏の旧臣を重臣に登用することはなく、例外が土佐(とさ)泊(どまり)城(鳴門市)にいた水軍の森志摩(しまの)守(かみ)だ。天下人豊臣秀吉の意向もあり志摩守は、家老に次ぐ高禄3,000石※が給された(『阿淡藩翰譜』)。それ以外の阿波の武士は、中・下級家臣または政所(まどころ)(後の庄屋)として支配の末端に連なるにとどまった。蜂須賀家による家臣団形成の特徴は、血縁や地縁を重視したことだった。彼らによって阿波国支配や城下町徳島が形成されたのである。
徳島築城の頃の様子をみておこう。蜂須賀家政は、徳島城の縄張(なわば)り(設計)にあたった老臣武市常三に、その功績に報いるため城の北側に屋敷地を与えた。 城の北側は、築城時には人家のない原野で、常三の屋敷が置かれたため「常(じょう)三島(さんじま)」と呼ばれることになった(「成立書并系図共 太田忠介」徳島大学附属図書館蔵)。城下町徳島において人名の付く地名は常三島だけだ。常三の偉大さとともに、築城当時の城下町の様子がうかがわれ実に興味深い。
天正13年(1585)から寛永15年(1638)に至るまでの時期は、蜂須賀家の領国支配は重臣を国内9城に置いた「阿波九城制」を採っていた。いわば軍事体制で阿波国の支配を行っていたことになる。重臣たちには蜂須賀家の兵300人が付されており、これに城番の兵が加わると蜂須賀家の軍団の過半が現地にいたことになり、城下町への武士の集住は部分的であった。当時の城下町徳島は発展途上の状態にあったといえよう。
それが大きく様変わりするのが幕府の出した一国一城令だ。元和元年(1615)に続いて、寛永15年(1638)にも発令され、寛永末年には城番たちは完全に徳島に移った。これに伴って城下町徳島は大改造が行われることになったのだ。
当時の様子がうかがえるのが「忠(ただ)英(てる)様(さま)御代(おんだい)御山下画図(ごさんげがず)」(国文学研究資料館蔵)で、福島東部と佐古、富田が注目点だ。それまで常三島にあった水軍の基地が福島東部に移され、その周囲には船頭や水(か)主(こ)、船大工の屋敷が設けられた。江戸時代には水軍のことを「安宅(あたけ)」と呼んだが、水軍の基地が設けられたので福島東部を「安宅」と呼ぶようになったのだ。
村状態であった佐古は、伊予街道沿いに広大な足軽町と町人地に生まれ変わり、同じく村であった富田も武家地や足軽町に取り立てられた。
また既存の武家地においても屋敷の整理が行われ、城下町の再編が抜本的に行われたのである。
17世紀の中頃には再編が完了し、武家屋敷や足軽町、商人町、職人町、寺町がそれぞれ整然と配置された近世城下町として徳島が誕生するのであった。
城下町発展の様子は、徳島城博物館発行『絵図図録第一集 徳島城下絵図』をご覧いただくと手に取るように分かる。お薦めの一冊だ。

※3,000石の武士の収入は、年貢率を50%に仮定すると、1,500石が実収となる。あくまでも目安だが、米1石を金1両として、1両を現代のお金10万円とすると、3,000石の森志摩守の年収は1億5千万円となる。たいへんな高給取りといえる。ただし、この収入で家臣たちを養わなければならなかった。

根津寿夫「城下町徳島の再編についてー下屋敷を中心にー」(『史窓』24、徳島地方史研究会、1994年)
根津寿夫「城下町徳島の成立と阿波九城制の克服」(『史窓』41、徳島地方史研究会、2011年)
宇山孝人「二つの「一国一城令」と阿波九城の終焉をめぐって」(『徳島県立文書館研究紀要』6、2014年)
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「阿波九城と駅路寺」
「江戸前期の城下町徳島」 許可済です
城下町誕生秘話 -幻の渭津(いのつ)― 〜第5回〜

 天正13年(1585)、阿波国の大名となった蜂須賀家政(いえまさ)は、天下人秀吉の命により猪山を城地とし築城を開始し、それと並行して城下町の開設にあたった。当時、城の周囲の地を「渭津(いのつ)」と呼んでいたが、この時に「徳島」と地名を改め町づくりがスタートしたのである。
徳島という地名を誰が命名したか、数ある文献・古文書は明らかにしてくれない。郷土史家河野幸夫氏は、徳は「富田庄の富とは同意の嘉字(かじ)であり、東には福島という地名もあるので、家政はこれらと関係づけて、つまり福島に対して徳島と、縁起をかついで城地の名称としたのではなかろうか。」(『徳島・城と町まちの歴史』)と推定するが、決め手はないと結んでいる。ただ縁起のいい地名であることと、新城下町としてイメージの一新を図るねらいがあったものと考えるのは容易だろう。ところが、新地名である「徳島」は約100年もの間、定着しなかったのである。
冒頭にふれたとおり、天正13年に藩祖家政は渭津の地名を徳島に改めた。ところが、孫の2代藩主忠英(ただてる)は慶安5年(1652)2月23日に渭津の旧号に復してしまった(『阿淡年表秘録』)。同年4月4日に忠英は没したが、この後、3代藩主光隆(みつたか)、4代藩主綱通(つなみち)と2代にわたり渭津を使用した。そして26年後の延宝6年(1678)に、相続したばかりの5代藩主綱矩(つなのり)が城地の地名を再び徳島に改めたのである。これ以降、現在に至るまで徳島が使われ続けている。このように、蜂須賀家入国とともに命名された徳島の地名は、100年近くもの間、固定しなかったことになる。
なぜ2代藩主忠英が渭津の旧号に戻したのだろうか。徳島は、忠英の後見役を務めた祖父家政(蓬庵(ほうあん))が用いた新地名であるにもかかわらずだ。余程の事情があったのだろうが、史料的には分からない。全くの推測になるが、渭津の地名を信奉し、使い続けようとした人々が少なからず存在したからではないか。そうでなければ、元の地名に戻すとは考えられない。だとすれば、これまで寒村程度としてしか認識されてこなかった、城下町徳島の前史である渭津に注目が集まる。ただし、当時の様子が窺える史料はなく、考古学の成果に期待する他はないのだが。
そもそも渭津とはどのような地名だったのだろうか。渭津とは、3代将軍足利義満(よしみつ)を補佐し室町幕府の管領や阿波守護などを務めた細川頼之(よりゆき)が、至徳(しとく)2年(1385)に名付けたとされる。城山の景色を映して流れる助任(すけとう)川を見て、その美しい姿が中国の古都長安の渭水の画景にそっくりだとして、助任川を渭水、山を渭山とし、山上に築城し「渭津」と命名した。また、これとは別に、城山が猪が伏した形の見えることから猪山と呼ばれ、渭山に転じ、周囲の港を渭津と呼ぶようになったという説もある。前者であれば渭津を根強く支持するのは理解できるが、根拠に疑問符が付くようだ。
最終的に徳島の地名を選択したのは5代藩主綱矩である。綱矩は、分家から相続し藩主権力としては強固ではない人物だが、相続した日に徳島の旧号に復したのは実に興味深い。綱矩は蜂須賀家の支配の原点に帰すべく地名を徳島に復したと考えることは可能だろう。
私たちが使用している徳島という地名にはこのような深い歴史があった。地名からは多くのことを学ぶことができるのだ。

河野幸夫氏『徳島・城と町まちの歴史』、聚海書林、1982年
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「阿波国徳島城図」徳島城博物館蔵、中川完治氏寄贈
兵学者山縣大弐(やまがただいに)が記したとされる絵図の一つ。景観年代は17世紀で、徳島を「猪津(いのつ)」と記す。
城下町誕生秘話 -寺町の創設― 〜第4回〜

 眉山の麓には多くの寺院が集められ寺町を形成した。多くの寺院を集めたのは、各宗派の寺院を大名統制下に置き、一元的に管理しようとした蜂須賀家の政策だ。加えて人々が信仰した寺院を保護することで人心の収攬を図ったことも見逃せない。
江戸時代中期、元禄4年(1691)の「綱矩様御代御山下絵図」では、眉山の麓には30もの寺院がみえる。この内の半数にあたる15寺院が、細川氏・三好氏の城下町であった勝瑞(藍住町)から移されたものだ。これは注目すべき事実だ。
徳島に先行する城下町は勝瑞だが、勝瑞から徳島へと引き継がれたものは少ない。武士に関しては、細川氏・三好氏旧臣の蜂須賀家臣団への登用は森志摩守や森飛騨守などの一部に限定され、勝瑞の影響は受けていない。また商人や職人も、江戸後期の藩撰の地誌「阿波志」(徳島城博物館蔵、徳島県指定文化財)によれば、勝瑞から徳島に転入して来た者は確認されていない。以上を踏まえて、勝瑞から徳島へは城下町の継承はないものと考えていた。
ところが、寺院に関しては勝瑞の影響を大きく受けていたことが分かった。勝瑞において細川氏や三好氏が手厚く保護していた寺院は、蜂須賀氏も引き続き保護したのである。
徳島城を出て内町を通り、新町橋を渡って新町を過ぎて寺町、大滝山に至るラインは江戸前期には成立していた城下町徳島のメインエリアの一つであろう。この大滝山に広大な境内地を与えられたのが真言宗寺院の持明院だ。勝瑞時代には18貫文(90石)が与えられ阿波国の祈願所であったため、藩祖蜂須賀家政は同寺を引き続き祈願所とした(「阿陽忠功伝」徳島城博物館蔵)。後に寺領100石が給され、17世紀の後半からは藩主の参勤交代日や出発行事である「首途」を占うなど、蜂須賀家の呪術者として重きをなした。城下町を俯瞰する高所に境内地を与えられた持明院は寺町の寺院の中でも格別の存在だった(明治4年廃寺)。
一般的に、寺院は広大な境内地を有していたため、有事には将兵を駐屯させることができる軍事施設と考えられている。確かに城下町徳島をみると、城の東には慈光寺、西には大安寺、北には興源寺、そして南には眉山麓の寺町があり、あたかも城を囲み守備するように寺院が配置されている。果たして寺院は有事の要塞だったのだろうか。
城下町のプランニングから判断して、寺院の軍事利用は計画されたものとは言えない。勝瑞から移転された寺院を多く含む寺町の成立は古い。しかし、蜂須賀家の菩提寺、興源寺(寺領550石)は、元は福聚寺といい徳島城北蔵の位置にあり、慶長6年(1601)に助任に移転した(「阿波志」)。福島で広大な境内を有した慈光寺は初代藩主蜂須賀至鎮が、慶長11年(1606)に母慈光院の菩提を弔うために創建している。寺院を軍事的に利用するねらいであれば、徳島築城の天正14年(1586)に遠からぬ時期に、城と連動して寺院が配置されなければならないだろう。慶長5年(1600)の関ヶ原合戦以降の創建では意味がないのだ。
寺院の配置が軍事的利用を想定したものではないとすれば、何を意図したものか。その一つの答えは寺町を歩いてみるとよい。眉山をバックにした寺町は実に風光明媚で森厳な趣がある。寺院は山号を有するが、それは元は寺院の多くは山にあったからだ。眉山の麓に寺院が多いのは、こうしたことと関係するのであろう。城下町徳島のプランナー蜂須賀家政はそう考えたのかもしれない。

根津寿夫「文献からみた城下町徳島の成立」(『阿波の守護所・城下町と四国社会』)
根津寿夫「徳島藩参勤交代に関する一考察 -「首途」についてー」(『凌霄』10号)
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「阿波名所図会」徳島城博物館蔵 文化8年(1811)
大滝山持明院から城下町徳島を俯瞰した風景。城下を見下ろす位置に立つことがわかる。
「阿波名所図会」は大坂で刊行された阿波の名所・旧跡を紹介した旅行ガイド。
城下町誕生秘話 -町人の誘致― 〜第3回〜

築城とともに進められたのが城下町の建設だった。江戸時代の城下町は、城と侍屋敷、足軽町、町人地、寺町で構成されている。これは全国の城下町で共通の構成要素で、徳島はこれに加えて水軍町が存在している。
城下町徳島は、城を中心に同心円状に、上級から下級家臣の屋敷が置かれていた。特に、城に直結した徳島地区に架かる寺島橋・福島橋・助任橋の前後は、橋を守備するように、家老や中老の屋敷が置かれた。上級家臣の家老や中老の屋敷は軍事的に配置されたのであり、城下町の屋敷編成の骨格を占めたのであろう。足軽の組屋敷は富田・佐古・助任地区に置かれた。寺院は眉山の麓に宗派ごとに置かれ、寺町を形成した。
町人たちが住んだのは、当初は内町・新町・福島・助任だけだった。内町に対して新しい町なので新町なのだが、寛永年間(1624〜1644)には内町・新町の差がないほど繁盛していたという(西岡岑久編「阿陽忠功伝」徳島城博物館蔵)。城から新町橋を通り寺町に至るエリアの成立は江戸初期に遡ることが窺える。新町の西に位置する佐古は、城下町の伊予街道口の玄関だが、寛永年間の終わりに町人地として開かれ、江戸中期以降、大発展を遂げた。新町橋を渡り南に進む、土佐街道口の玄関に位置したのが二軒屋町だ。天正13年(1585)に蜂須賀家政が城下町を開いた頃には、人家が2軒しかなかったので「二軒屋町」と呼ばれた(佐野山陰編「阿波志」徳島城博物館蔵)というが、江戸後期には住人が200軒を超える大きな町に成長している(二軒屋町冨士谷家文書)。
城下町の開設で大切なのは町人の誘致である。安土桃山時代から江戸前期には多くの城下町が誕生し、現在の県庁所在地の都市になっている。開設以前の状態は港湾都市や寒村などとケースバイケースだが、江戸時代に入り平和が到来すると急速に都市化が進んだ。江戸時代は新たに誕生した都市の時代ともいえる。
城下町徳島では、新領主蜂須賀家政が阿波国内に触れを出して、城下に来て商売を希望する者があれば屋敷地を与えるという優遇策を採った。加えて、先進都市だった堺や蜂須賀家の旧領播磨国、出身地尾張国から商人を招いた。大名蜂須賀家と町人との関係を探ってみよう。
千利休の甥、渡辺道通(魚屋立安)は父が家祖蜂須賀正勝に仕えた関係から徳島に招かれ、内町に屋敷を与えられ商売を行った人物である。道通に宛てられた利休の手紙(徳島城博物館蔵)を見ると、「蜂小六殿」(蜂須賀家政)から依頼のあった茶釜が見つかったので阿波の家政のもとに届けてくれるよう述べている。この手紙からは家政が利休に師事していたことが分かるが、道通が利休と家政とのパイプ役を務めた人物であったことが注目される。商売だけでなく、関ヶ原合戦にあたり家政は道通の屋敷で剃髪したとされることから、家政にとって道通は友人のような存在だったことだろう。江戸前期には領主と町人という身分差に関係なく交流が行われたのである。道通の子孫は、藩が発行した藩札座本役を務め、徳島藩財政を支えた豪商となった。
家政を慕って阿波に来国した高砂出身の寺澤六右衛門は、小松島の開発や勝浦川や那賀川の通行税の徴収役を務めている。六右衛門の子孫も座本役として藩札の発行にあたった。江戸初期には、商人といっても領主の必要な物資を調達するだけでなく、国内の開発や大名の支配組織の末端を担ったりと、多様なあり方を示す。ちなみに、「六右衛門小路」は、寺沢六右衛門の屋敷に由来する(「阿府志」)。
城下町徳島は次第に成長し、武士・足軽等を除く町の住人は、17世紀後半には、家数1,472軒、人数は18,826人を数えた(「御目付衆へ上る阿波淡路両国之事」『御大典記念阿波藩民政資料』)。

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「千利休書状」 徳島城博物館蔵 天正14年(1586)
城下町誕生秘話 -徳島築城― 〜第2回〜
 徳島城は明治初年に解体され天守等の建物は全く残っていないが、江戸時代には阿波・淡路両国25万7千石を領した大名蜂須賀家の居城、そして政庁だった。徳島城の魅力は、徳島産の結晶片岩を使った石垣で、「野面(のづら)積み」などの時代ごとの、さまざまな石積みを見ることができる点だ。平成18年には国の史跡に指定されている。また殿様が毎日眺めていた庭園が残っているのも貴重だ。殿様の居間である中奥(なかおく)や表御殿に面しているので「旧徳島城表御殿庭園」(国指定名勝、昭和16年)と呼ばれる。枯山水と築山(つきやま)泉水庭(せんすいてい)からなり、園内を散策することができる。特に晴れた午前中の散策は爽快だ。徳島城は、建物はないが、石垣や庭園が素晴らしい。
さて、徳島城の歴史は古く、天正13年(1585)に遡る。同年、阿波国の領主となった蜂須賀家政は、すぐに猪山(現在の城山)に築城を始めた。城地の選定は天下人秀吉であった。8月4日付けの秀吉の書状写し(「豊臣秀吉朱印状写」毛利博物館蔵)では、家政の居城は猪山がよかろうと述べ、さらに阿波一国を治める城として工事を行うよう命じている。
猪山城は、阿波国を細川氏が治めた時代には切幡城主森飛騨守が番手を置いたとされる。天正10年(1582)からの長宗我部氏の時代には家臣吉田泰俊が守備したが、天正13年の四国攻めの際には戦わず逃亡した。要害堅固な城ではなかったようだ。
徳島城は、この猪山城をベースに助任川と寺島川を堀として取り込んだ城で、秀吉の命により伊予の小早川隆景や土佐の長宗我部元親、比叡山の僧侶が協力し築造し、翌天正14年(1586)には完成したという。比叡山の僧侶が参加したというが、同山の麓には「穴太(あのう)衆」で有名な穴太村(大津市坂本穴太町)があることから、城郭などの石工職人も加わっていたことだろう。「野面積み」と呼ばれる、この時の石積みは本丸東部に今も残り、石垣を眺めていると戦国時代にタイムスリップしたような気持ちになる。徳島城見学のお薦めポイントの一つだ。
築城時の悲しい伝説がある。城山には素月という修験者がおり、築城するので移転を命じたが、これを聞き入れないので、蜂須賀家政は素月を斬り殺してしまったという。封建領主の力の強かった時代のことで随分酷い話だが、家政も一抹の後ろめたさがあったのではないか。城山中腹には素月堂を建ててその霊を慰めている。また山頂には清玄坊神社があるが、斬殺されたのは清玄坊という説もある。斬殺の舞台となったとされる紙屋町(現在の徳島市一番町)では、毎年5月5日に清玄坊を祀り、町内の無事息災を願う祭が今も行われている。
現在と過去が交差するのが徳島城だ。歴史世界をイメージしながら散策すると、見慣れた石垣も変わったものに見えるのではないだろうか。
『徳島県の中世城館』、徳島県教育委員会、2011年
河野幸夫『徳島 城と町まちの歴史』、1982年
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「旧徳島城表御殿庭園」
枯山水に架かる青石橋。中央で割れているが、初代藩主蜂須賀至鎮が奥方に毒を飲まされ地団駄を踏んで踏み割ったという伝説がある。勿論、史実ではなく、至鎮が35才の若さで亡くなったことや外様大名の蜂須賀家に大御所徳川家康の養女が嫁いできたことなどから創作された話だ。
城下町徳島の誕生 〜第1回〜
天正13年(1585)、四国を平定した豊臣秀吉は阿波国を蜂須賀家政に与えた。はじめは長年功績のある正勝に与えるつもりであったが、正勝は老齢で秀吉の側近く仕えることを望みこれを辞退し、代わりに28歳の嫡子家政が拝領した。
蜂須賀家は尾張国海東郡蜂須賀村(愛知県あま市)の豪族で、「小六」の名で知られる正勝が、織田信長、豊臣秀吉に仕え、天正9年(1581)には播磨国龍野城で5万3千石の大名となった。天正13年に家政が拝領したのは阿波国のうちで17万5600石余だったが、慶長8年(1603)には阿波国全てを領有し、さらには元和元年(1615)には淡路国7万石余を与えられ、蜂須賀家は阿波・淡路両国25万7000石の四国最大の大名となった。
家政は猪山(現在の城山)に築城を始めたが、城地の選定は天下人秀吉であった。この時、「渭津(いのつ)」の地名を「徳島」と改めた。新領主蜂須賀氏の入国にあわせ、人心の一新を図るねらいがあったのだろう。
築城と並行して城下町の建設が行われた。徳島に来て商売をする者には屋敷地を与えるという告示を阿波国内に出すとともに、堺から千利休の甥、魚屋道通(ととやどうつう)を招くなど、町人を積極的に集め、町づくりが進められた。
徳島は河口部に立地し、大小河川の乱流するデルタ地帯に設けられた城下町である。デルタ地帯の土地利用は築堤工事などが必要だが、河川を水上の幹線道路として軍事的、経済的に利用することができるのが魅力だ。桃山時代から江戸初期の城下町の多くは河口部に立地し水上交通で栄え、後には「水の都」と呼ばれる都市が誕生する。徳島もその一つだ。城下町徳島は、阿波藍を始めとする特産物に加え、水運の展開により繁栄を極め、明治27年(1894)には全国11位(「都会一覧表」)の人口を有するまでに成長したのだ。
(参考文献:特別展図録「秀吉の町・家康の町」、徳島城博物館発行、2007年
特別展図録「描かれた城下町 -水都発見―」、徳島城博物館発行、2009年
[写真解説 ]
「解体前の徳島城古写真」 徳島市立徳島城博物館蔵
明治5年(1872)頃に撮影された徳島城唯一の写真。鷲の門やその右側に見える月見櫓のほか、山上には天守の屋根も見える。

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根津寿夫(ねづひさお) 徳島市立徳島城博物館 係長(学芸員)

経 歴 昭和39年、東京都に生まれる。平成2年、明治大学大学院文学研究科史学専攻修了(文学修士)。同年、徳島市教育委員会に学芸員(歴史担当)として採用される。国際日本文化研究センター共同研究員(平成15~16年)。
論文等 『江戸時代 人づくり風土記36ふるさとの人と知恵 徳島』(農山漁村文化協会、1996年、共著)
『日本歴史地名大系第37巻 徳島の地名』(平凡社、2000年、共著)ほか
「蜂須賀家騒動 重喜の改革をめぐる君臣抗争」(福田千鶴編『新選 御家騒動 下』、2007年)
「徳島藩蜂須賀家の「奥」ー正室・こども・奥女中ー」(徳島地方史研究会『史窓』38号、2008年)ほか